障害と「才能」を結びつけることに伴うリスク

最近、発達障害精神障害を背負って生きている人に対して「この人はこんな凄いことができるけれども実は障害があります。」というような描き方をしているメディアに触れる機会が多い。

確かに世間が喜びそうな物語を内包しているとは思うが、障害と「才能」を結びつけることに伴うリスクは否定できないと考える。

 

才能が無くてもいいじゃないか、とまでは言わないが、特異な才能があるということが「障害者がこの社会で生きていてもよいのだ。」ということを証明する免罪符のようなアイテムとして機能して欲しくはない。

私がお子さんと関わっている中で、この先この子は社会でどうやって生きて行くのだろう・・・と長いスパンで必ず考える。障害があろうとなかろうと、人はこの社会で生きていかねばならない。社会がどうであれ、これはもう仕方ないことなのだ。障害を持ちながら、如何に生きて行くのか。特異な才能を持ち合わせていないとしても、社会で生きるためにはどうすればいいのか・・・いつも考えてしまう。

 

 

障害と「才能」というと、私の脳裏をふとかすめたのは乙武さんであった。

小学校の時、乙武さんの著書を読んで感じた違和感がある。それは、「血の滲むような努力と周囲の人間に恵まれた結果、障害者でも健常者と同じように暮らすことができた成功物語」が描かれていたことに対し、私の周囲に居た障害者は乙武さんとかけ離れている存在であった。障害者も頑張れば乙武さんみたいに・・・という障害者像が生まれやしないかと、幼いながらにびくびくしていた。乙武さんみたいに頑張らないと、生きていてはいけない存在なのか。頑張りたくても頑張れない人はどこに行ってしまうのか。頭を抱えてしまった。

最近Twitter乙武さんは活発に発言をしていらっしゃる。そんな人と繋がっているのか!というようなコネクションも垣間見える。健常者から見て「すごいな!」と感じることがあっても、それは障害とは切り離されたところにある、一つの煌めきを持った「才能」なのではないだろうか。(勿論、完全に切り離せるわけではない。障害をきっかけに才能が開花したことも否定することはできない。)

乙武さんの場合は、身体障害なので話はまた別なのかもしれないが、発達障害精神障害があるから「才能」があるのではない。そこら辺を安易に結びつけている人が多いのではないか、というここ最近の印象である。